コラム

大阪経済大学の源流——黒正巌博士とともに培われた、建学の精神「自由と融和」。

大阪経済大学はどのように生まれ、どのような変遷をたどって現在に至っているのでしょうか。本学の前身である諸校の歴史をふり返りながら、学園の再建に深くかかわった黒正巌博士の業績と教育観、そこから醸成された草創期の学風、今に受け継がれる建学の精神について、その源流を紐解きます。

存続の危機にあった浪華高商を再建

大阪経済大学の歴史は、1932年に設立された浪華高等商業学校の開設に始まります。「大大阪」と呼ばれ商工業が大いに発展していた時期の大阪市における唯一の私立高商として、社会ニーズに応える人材育成を期待されました。しかし、学校設立行為に関しての問題が明らかになり紛争が起こります。設立3年後の1935年3月には学校更生策に保護会が乗り出したり、学生が学年末試験を放棄する事件へと発展、学校存続の危機に陥ってしまいます。

1000人を超える在学生の前途や廃校による社会的影響を心配し、同年5月、文部省、大阪府・大阪市に大阪財界の有力者、そして学界の関係者と、まさに産官学が一体となって救済に乗り出します。京都帝国大学(現・京都大学)経済学部教授として名を知られた黒正巌博士も私財を投じて再建にあたり、その人脈を通じて京都帝国大学、大阪商科大学(現・大阪市立大学)の幅広い学者グループが学校運営に協力することになりました。多くの人の努力により、同年9月、財団法人昭和学園が京阪電鉄副社長・有田邦敬氏と黒正巌博士が設立者として新設され、校名も昭和高等商業学校(以下、昭和高商)と改め再出発を果たしました。昭和高商の初代校長には理事にも名を連ねる黒正巌博士が就任しました。

黒正巌博士と昭和高等商業学校の学生たち(1935年)

マックス・ウェーバーの学問を日本に紹介

黒正巌博士は、日本の社会経済史学樹立に貢献した経済学者です。1895年、岡山にある布勢神社の神主の家に生まれました。岡山中学(現・岡山県立岡山朝日高等学校)から第六高等学校(現・岡山大学)へ進学、京都帝国大学法科大学政治経済学科から大学院に進みます。27歳で京都帝国大学経済学部の講師となって、経済史、経済地理学の研究に没頭、29歳で『経済史論考』を刊行しました。その後、文部省在外研究員として農史研究を目的にイギリス、ドイツ、フランス、アメリカで2年間留学する間に、ドイツのハイデルベルク大学で近代社会学の創始者と言われるマックス・ウェーバーの学問に出会い、帰国後に日本に紹介します。また、ハイデルベルクの街には哲学の道があったことから、京都の自宅付近にある琵琶湖疏水の歩道を歩いては留学中を思い出し「哲学者道」と名付けました。それが「哲学の道」の由来となったとも言われています。31歳の時には京都帝国大学農学部の農史初代教授、34歳の時に『百姓一揆の研究』で経済学博士の学位を修得、38歳で私財を投じ、のちに昭和高商の設立にも共に尽力する本庄栄治郎博士らと京都帝国大学の隣接地に日本経済史研究所を設立しました。この研究所は、1948年、大阪経済大学に移管され、現在まで続いています。黒正巖博士の業績は、『黒正巌著作集』全7巻(1992 思文閣出版)にまとめられています。

『百姓一揆の研究』
『黒正巌著作集』全7巻
旧日本経済史研究所(現・京都大学農学部内)
京都 哲学の道

仲間とともに学園を発展に導く

昭和高商の校長に就任したのは、まだ40歳という若さでした。設立のリーダーとして、従来の高等商業教育に加え一般教養を重視する教育方針を貫き、校舎の新増築や支那経済研究所の開設など、教授仲間とともに学園を規模・内実の両面から発展に導きました。戦争末期、戦時体制のもと、全国の高等商業学校が工業専門学校への転換を余儀なくされたとき、黒正校長はこれをよしとせず、文部省との折衝の末、大阪女子経済専門学校を設置するという全国でも珍しい方法で対応しました。学徒出陣する男子の代わりに女子を教育する学校として、施設や教授陣をそのまま生かしたのです。

終戦後、1946年に大阪経済専門学校(以下、経専)に改称し、当時としては先進的な男女共学として大阪女子経済専門学校の生徒を編入、再スタートを切りました。この間、黒正博士は国の命を受け、岡山の母校・第六高等学校校長に就任するために経専の校長を辞しています。1949年の学制改革で大阪経済大学へと昇格する際、当時の状況下では大学昇格が困難とされ、多くの関係者によって学長として復帰を要請されました。大学への昇格へと尽力し、大阪経済大学として改組へと導き初代学長として就任しますが、半年後の9月、54歳の若さで急逝しました。

大阪女子経済専門学校(1944年)

教師と学生が一つになる学びの場

建学の精神として大阪経済大学に受け継がれている「自由と融和」。自由とは、いかなる権力や権威にも依存することなく、また時流に流されることなく、自分で考え、自律した生き方を追求すること。融和とは、人と人との和を尊び、平和を愛し、一人ひとりの人権と個性を尊重し、相手の言葉に耳を傾け、お互いの立場や生き方を理解する。学園の再建、昭和高等商業学校の創始にあたり黒正博士の言動は、この精神を体現したものでした。

「道理貫天地(道理は天地を貫く)」「研学修道」は、人の生きる道、道理を追究せよという人としての目標を説いた言葉であり、「自由と融和」の精神が到達するゴールを示したものと言えるかもしれません。「教育に最も必要とするのは物的設備より、教師と学生の人格的・精神的統合である」という考えで、どんなに忙しくても、学生と直接かかわることを大切にしました。自宅にも学生を招いて夜通し議論することもあったそうです。「昭和高商は塾だ」と何度も話していたことからも、私塾のような親密な学びの場を一つの理想としていたことがわかります。

そうした思いを教授陣や学生たちが受け止め、学風が形成されていきました。象徴的な出来事ともいえるのが、1947年頃、経専を大学へ昇格させようと教職員と学生とが一体となって取り組む機運が生まれたことです。大学として認可されるための重要な基準として図書館の設置とその蔵書数があったため、学生自治会や運動部員が協力し、条件を満たす図書の準備のために京都大学の日本経済史研究所から蔵書を運び入れたり、同窓生のもとへ図書館建設の寄付金集めに回ったりしました。草引きや大掃除など、キャンパス内の整備も手弁当で進めました。このような師弟協調の姿に感動した国文学の教授が、実際に行われたクスノキの植樹に込めて表現したのが、「学徒子弟が幹負いもちて諸汗に 確かと植えた融和の象徴」という学歌の一節です。

大学になった後も、学長室にござを敷いて、先生や学生、用務員まで加わってすき焼き会をしたという、自由さ、距離の近さを表す融和のエピソードも伝わっています。学生たちには英語の勉強を推奨し、国際感覚を身につけた人材の必要性を説きました。「有用の学、無用の学」という言葉で、役に立たないと思われているものが実際には大きな役割を果たしていると教え、「牛尾となるよりも鶏頭となれ」という言葉で自律やリーダーシップについて説きました。黒正巌博士が学生に向けた視線は、大阪経済大学がこれからも守り続けていかなければならないものを教えてくれています。

設立してすぐの大阪経済大学(1949年)
今も学内にある「道理貫天地」と刻まれた石碑