コラム

日本経済史研究所ヒストリー(前編)——経済史の興隆を主導した前身の時代。80年の歴史を支える研究基盤を確立。

初代学長・黒正巌博士とその師・本庄栄治郎博士、菅野和太郎博士等が中心となり開設した日本経済史研究所。2023年に開所90周年を迎える研究所の主な事業の変遷を振り返りながら、その歴史を俯瞰し、過去と未来をつなぐ経済史研究の果たす役割を考えます。前編では、開設当初から戦後の再出発までを追いかけます。

経済史学の巨星のたぐいまれな遺産

日本経済史研究所は、1933年、大阪経済大学の初代学長を務めた黒正巌博士が私財を投じ、建設された研究機関です。その源流は、1926年、京都帝国大学経済学部で始まった一つのゼミナール、本庄栄治郎教授が担当した日本経済史演習でした。京都帝国大学農学部の黒正教授や彦根高等商業学校の菅野和太郎教授も参加し、教授も学生も一緒になって密度の濃い研究が行われました。このゼミナールをきっかけに1927年有志が集まる談話会が開かれるようになり、やがて1929年4月、京都経済史研究会と名付けて研究発表や研究史料の編纂を行う学会に発展しました。

また、本庄先生、黒正先生、菅野先生らは同じ年の7月、別の学会組織、経済史研究会を創設し、その年のうちに日本で初めての経済史専門学術誌『経済史研究』を創刊します。大正期から昭和初期にかけて、経済史研究は大きなムーブメントになっていました。月刊誌として様々な研究論文を掲載する『経済史研究』は、まさに興隆期の経済史学をリードする存在だったのです。経済史研究会は順調に活動を続け、やがて京都経済史研究会も合流して活発に事業を進めました。

研究所開設時のメンバー
経済史専門学術誌『経済史研究』の創刊号

経済史研究会の活動を引き継いで設立されたのが、日本経済史研究所です。祖父の遺産を相続した黒正先生が、その財産を日本経済史学界に貢献する「永久的に残る事業」に投じようと計画したもので、1932年12月に設立のための協議会が開催されました。黒正先生は、用地として京都帝国大学農学部に隣接した約300坪を買収し、建設工事費も拠出しました。代表理事には本庄先生、理事には黒正先生、菅野先生のほか、京都帝国大学の中村直勝助教授が就任しました。1933年初頭から建設工事がスタートし、5月15日には無事、開所式の日を迎えました。木造2階建の瀟洒な建物に共同研究室や講演室が配置され、鉄筋コンクリート4層建の堅牢な書庫が併設されました。そこに収められた蔵書は、『経済史研究』第12巻4号に収載の「研究所彙報」によると1934年8月末時点で、未整理図書等を除いた総計が4099冊であり、そのほとんどが本庄先生の寄贈によるものでした。経済史研究会が発行していた機関誌『経済史研究』も、1933年3月に刊行した第41号から研究所が発行することになりました。

開所当時の日本経済史研究所

地方史家との交流を含め多彩な事業を展開

日本経済史研究所では毎月研究会を開催し理事や所員の研究発表を行うほか、講演会や展示会の開催、機関誌『経済史研究』の発行、図書の編纂・出版など様々な事業を展開しました。なかでも『経済史研究』は、国内はもとより海外の研究者にも研究所の存在を知らしめることになった、代表的な事業です。毎号に「最近の経済史学界」と題して文献一覧、書評・史料紹介などを収録し、毎年、前年に発表された経済史関係の著作や論文を収録・解題した「経済史年鑑」を特集号として発行し、一研究所の機関誌を超えて「日本経済史学界の機関誌」の役割を果たしました。

また、本庄先生が『経済史研究』創刊号の「発刊の辞」で、「各地方についての研究が行われなければ我が国の史的経過はその全貌を知り得ざるものであろう」と述べられたように、研究所の活動は各地方との研究の繋がりを重視していました。黒正先生は、しばしば所員を連れて各地に史料採訪旅行を試み、その範囲は近畿から中国、四国、九州、北陸、関東、東北にまで及びましたが、その際には地方史家との交流を行い依頼されて公開講演会を開くこともありました。1934年には『郷土史家名簿』を発刊し、翌年に開催した研究所創設三周年記念大会では地方史家談話会を開催して地方史家による研究発表を行うなど、積極的に地域とのつながりを深めました。

研究成果を世に問う図書の編纂・出版活動にも積極的に取り組みました。学術的研究論文を単行本として発行した「研究叢書」、経済史への興味を広げる一般向けの読み物として多数の論稿を集めた「史話叢書」、日本経済史の部門別叢書「日本経済史叢書」のほか、代表的な事業となったのが1940年に発行した『日本経済史辞典』です。前身の経済史研究会時代に計画され、本庄、黒正、菅野三先生が中心となって、日本経済史、国史、地方史誌に関する様々な文献、社会経済学、国史関係の辞典から約1万の収載項目を選んだところで、日本経済史研究所開設に伴ってその事業として引き継がれました。その後、収載項目の再検討を続けて項目を増やし、各900ページ以上の上下巻と索引巻の三巻本として発行されました。

『日本経済史辞典』

戦後大阪経済大学に移管され再スタート

本庄先生は1942年に大阪商科大学(現大阪市立大学)第2代学長に就任して京都を離れ、黒正先生は1944年に岡山の第六高等学校校長に就任して京都帝国大学教授と兼務することから多忙となりますが、研究所の活動は堀江保蔵所員を中心に継続されました。しかしそれも、戦時統制によって雑誌用紙の配給が制限されるなど次第に困難となり、『経済史研究』は1945年1月に刊行された第32巻1号をもって休刊を余儀なくされます。戦後は、研究所の建物は進駐軍に接収され、事実上閉鎖となって活動は中断することになってしまいました。

1947年、財団法人昭和学園理事長に就任した黒正先生は、大阪経済大学の前身、大阪経済専門学校の新制大学への昇格準備のため、1948年、本庄先生の快諾を得て研究所の図書を大阪経済専門学校へ移管します。研究所を従来の機能を持ったまま新制の大阪経済大学に移し、本庄先生を所長として再興を図る意向だったようですが、翌年、黒正先生は大阪経済大学初代学長となって半年後の9月に急逝、研究所の再開は宙に浮く形になりました。しかし、研究活動そのものは本庄先生ら多くの方々の努力によって続けられ、1955年には『経済史年鑑』が復刊されました。

大阪経済大学日本経済史研究所として再スタートが切られるのは、1959年頃のことです。1960年、復刊された『経済史年鑑』を『経済史文献解題』として引継ぎ、以来、毎年刊行を続けました。『経済史文献解題』の原稿作成・編集は、本研究所所員はもちろんのこと、研究所の前身時代から関わってきた他大学の研究者や、その弟子筋を含めた多くの研究者へと引き継がれていきました。また、1961年には「研究叢書」、1974年には「史料叢書」の刊行も開始しました。

『経済史年鑑』から『経済史文献解題』へ脈々と引き継がれる研究活動

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