インタビュー

「野球のことだけを考えていたらプロにはなれなかった」。津田選手と髙代監督、創発が生まれた3年間。

本学の硬式野球部在籍中に、阪神タイガースからドラフト指名を受けた津田淳哉さん。高校までは選手としてなかなか芽が出なかった彼が大学で花開いたのは、WBCでのコーチ経験もある髙代延博監督との出会いが大きかったかもしれません。お二人が過ごした3年間にどんな創発があったのか、ドラフト会議から3週間後のタイミングで対談いただきました。

対談者

髙代 延博さん

硬式野球部 監督。社会人野球から1978年ドラフト1位で日本ハムファイターズに入団。現役引退後はコーチとして活躍し、2009年のWBCでは世界一も経験。2021年から外部コーチとして本学へ。2023年から監督に就任。

津田 淳哉さん

硬式野球部 ピッチャー。経済学部4年生。奈良県・高田商業高校出身で3年次の全国高等学校野球選手権大会では県大会準決勝まで進出。本学には商工系資格評価型選抜で入学。2023年プロ野球ドラフト会議で阪神タイガース6位指名を受ける。

プロ野球を意識し始めたのは大学2年生からだった

――まずは津田選手から、野球を始めたきっかけをお話しいただけますか?

津田 小さい頃に公園でキャッチボールをしていたのが野球を始めたきっかけです。両親は全然野球に興味がなかったんですが、祖父母がプロ野球好きで、髙代さんのこともよく知っています。

髙代 へえ、そうなんやね。

津田 祖父母には甲子園にもよく連れて行ってもらいました。それでだんだんと野球にのめりこみ、チームに入ったのは小学4年生からです。

髙代 津田は部活じゃなくてシニアで野球をやってた?

津田 ボーイズリーグです。でも中学時代は試合に出してもらえる選手ではありませんでした。ピッチャーでずっとやってきたんですが、なぜ自分がマウンドに立てないのかがわからず辛かったです。高校でもエースナンバーはもらえず10番。監督から外野に回るよう指示された時期もありました。監督にお願いして3年生の夏の大会はピッチャーで出場することができましたが、やはり背番号1番を他の選手に取られてしまい…。チームは県大会決勝まで進んで僕も登板できましたが、満足できないまま高校野球を終えることになりました。

野球との出会いや伸び悩んだ時期について話す津田選手

――そこから大経大に進学されたのはなぜなのでしょう。

津田 野球を諦めたくなかったからです。高校の監督のすすめで、最終的に大経大を選びました。大経大の硬式野球部は、希望すれば誰にでも門戸が開かれていたからです。

またプロを意識し始めたのは、髙代監督がコーチとして大経大に来られた2年生の頃です。1年生のときはコロナで外出できない時期が続いたので、自分なりにトレーニング方法を調べて励んでいました。そうしたら2年になる頃には、球速が130キロ台から150キロ台まで上がったんです。幼稚な考えですが「150キロを出せるなら、プロを狙えるかも」と意識するようになりました。

髙代 津田との出会いはまだコロナが収まってない2021年で、体格が良くてブルペンでの投げっぷりもいい選手だなという印象でした。そこで彼の投球フォームをスマホで撮って、同い年でコーチ時代も仲が良かった佐藤義則(編集部注:元プロ野球投手。投手コーチとしてダルビッシュ選手や田中将大選手を育てた)に見せたんですよ。そうしたら10分ぐらいじーっと動画を眺めて、「髙代、今回だけ特別だぞ!」と足の踏み出し位置についてアドバイスをしてくれたんですよ。…津田、あれは役に立ったよな。カットボールが回り出すようになったもんな。

津田 はい。

髙代 そんな縁から、義則も津田のことを気にしてくれていまして。ドラフトの後に「決まってよかったな!」とわざわざ電話をくれたんですよ。

マウンドに立つ津田選手

スピードにこだわり伸び悩むも、緩急をつかんで一気に成長

――大学野球からの津田選手の成長について、監督はどのように見ていらっしゃいますか?

髙代 津田は4年生になってから急激な成長を見せたんですが、それまでは伸び悩んでいたんですよ。「何で僕、打たれるんですか?」と質問してきたこともありましたね。

津田 はい。試合中に質問したのを覚えています。

髙代 なぜ打たれるのか…。これは僕の考えですが、自分が意図したところに意図したボールを投げれていなかったんですね。勝てるピッチャーというのは、ワンストライク、ツーストライクと追い込むほどに、厳しいコースへ球を投げることができます。一方で津田は球こそ速くなりましたが、投げるほどにコースが甘くなるためバントを許すわけです。

津田 試合中に監督から「この場面でバントを許すな。2ストライクと追い込んでいるのに、なぜ、バントしやすい球を投げるのか?ファウルさせて三振を取りにいく配球がほしかった!もったいない!」と言われたのをよく覚えています。当時は真っ直ぐ(速球)にこだわっていて、自分が持ってる一番良い球を投げたらバッターを抑えられると思っていました。

髙代 練習中でも、投げたらすぐスピードガン(速度測定器)を見てたよな(笑)。

津田 4年生の春ぐらいからスカウトの方が見にくるようになり「スピードを出したらスカウトの目に留まる」という邪念がありました。監督はもちろん平川コーチからもずっと「マックスのスピードは1球でいい」と言われていたんですが…。でもだんだんと緩急の意味がつかめるようになり、バッターと勝負するおもしろさがわかるようになりました。

髙代 投球から力みがなくなったのも大きいと思います。それまでは棒のような投げ方だったのが、鞭のようにしなって投げるから、球威が出るし緩急もはっきりしてきたんです。以前の津田は投球数が多い割に完投も完封もなかったんですが、今年の秋は106球で9回を投げ切って完投勝利を飾りました。大器晩成タイプなんですね。

津田選手をはじめ選手の成長を喜ぶ髙代監督

大学野球の監督として注力したのは「社会人としての成長」

――髙代監督はプロ野球界引退後に、アマチュア野球界の指導者として活躍されるようになりました。大経大とのご縁についてもお伺いしてよろしいですか?

津田 僕もなぜ監督が大経大に来られたのか、経緯を知りたいです。

髙代 大経大のOBでもないんで不思議ですよね。実はある進学校の野球部に招かれていたのですが、野球グラウンドの用意が間に合わず、話が頓挫してしまったんですよ。するとその野球部の監督が「大経大も指導者を募集しているんですがいかがでしょうか」と相談してこられたんです。彼は大経大野球部のOBで、本学の平川コーチとも先輩後輩の関係だったんです。

津田 そうだったんですか!

髙代 それで後日、大経大のグラウンドを訪ねまして。「案外、部員が多いんやな」と感心しながら練習を見てたんですが、そこで部員から「ウィーッス」とユニホームのポケットに手を入れた姿で挨拶されたんですよ…。もうその瞬間に「こりゃ、強くないわ」と思いましたね。

野球以前に、人としてどうあるべきかが大事です。僕は部員に、プロ野球選手レベルの技術や練習量を求めてはいません。それですと部員が潰れてしまいますからね。だから一所懸命にやってくれればそれでいいのですが、礼儀ができてないことや怠慢なプレーに対しては「絶対にあかん」と言っています。監督になってからは、「おはようございます、こんにちは、こんばんはなどの挨拶は、ちゃんと立ち止まって言いなさい」と、かなりうるさく言い続けました。

津田 僕も監督に指摘されるまでは歩きながらの挨拶でしたし、挨拶をきちんとするようになってからは、対戦相手の礼儀が雑だったりすると「こういうところが脇の甘さにつながるんじゃないかな」と感じるようになりました。

髙代 また、監督と選手が話しやすい環境をつくることも心がけていました。選手と監督という上下関係はあっても、溝をつくってしまうと一方通行になりますからね。

津田 選手からすると監督って、大学の先生とは全然違う存在で、普通は気軽に話しかけたり質問はできません。特に髙代監督にはオーラがあるので…。ただ、監督の方が率先して僕ら選手全員に平等に接してくれていたので、思い切って相談できていました。

――ボーイズリーグや高校野球では、指導者の方にあまり相談されなかったのですか?

津田 卒業してからは親しく交流が続いているのですが、当時は相談した記憶がないです。おそらく僕自身が野球にそこまでがんばれてなかったからだと思います。一方で髙代監督の場合は、監督自身が話しかけやすい環境をつくられていたのと、僕自身もプロの世界で戦ってきた方の生の声を聞けるのがうれしくて声をかけていたのがあります。

壁を越え語り合う津田選手と髙代監督

監督・選手に共通する「目配り・気配り」の大切さ

――最後に、野球で生まれる「創発」について考えていきたいと思います。選手と監督が話しやすい環境があったことが、創発につながったように感じるのですがいかがでしょう?

髙代 そうかもしれません。ただ、僕が目ぼしい選手にだけに声をかける監督だったなら、津田もチームもこうは強くはならなかったでしょう。

僕が監督になってまず取り組んだのが、全員の名前を覚えることでした。部員を漏れなく見てまわるのは大変なのですが、指導者自身が練習に加わり選手一人ひとりを見て、適切に声をかけるのが大切なんですね。全員に同じ練習をさせていたらチームのレベルは下がります。一人ひとりに適切な練習メニューを与えて、伸ばしていく必要があるんですよ。観察や心理的な考察をへて、どう行動するか。それは選手にとっても同じかもしれないですね。

津田 バッターを観察しながら投げるようになったのは、自分でも成長だと思っています。

髙代 選手と一緒に練習して変化にいち早く気づくこと。人の話に耳を傾け、選手の気持ちをすくい上げて適切な言葉をかけることが指導者として大事なことだと、僕はプロ野球コーチ時代に学びました。ピッチャーもバッターがどういう気持ちでいるのかについて、自分とは違う視点で考えると、心理の裏を突いた配球で勝負ができるんですよ。

津田 試合でボール球を投げてピンチになったときに監督から「いい餌をまいたと思っとけばいい。バッターは、こんな悪球を続けて投げてこんだろうと思うから裏をかけばいいんや」と言われたのを覚えています。本当にそれでバッターが空振りするんで、一つ賢くなったなあと。

髙代 そういう目配り気配りができるようになったのが、津田の一番の成長要因かもしれません。

津田 今まではすごく視野が狭くて、ストライクが入らなくなると「どうしよう!」と自分のことしか考えられなくなっていました。でもそこで「打たれてもみんなが守ってくれてる」と仲間を信じて視野を広げると、力みが消えるようになりました。僕自身はまだまだですが、もっと周りに気を配り、アドバイスを素直に聞ける人間でありたいと思います。

自分自身だけでなく仲間を信じ視野を広げたという津田選手(左)

髙代 目配り気配りは社会人にも大事なことです。70歳の僕からみると、今の人は目配り気配りが足りてないように感じます。社会人として働くことは個人競技のようなものかもしれませんが、チームプレイも必要です。PL学園時代に清原くんや桑田くんを育てた中村順司監督が「球道即人道」、つまり「野球の道は、すなわち人の道そのもの」だという言葉を使っていますが、僕も本当にそうやなと思っています。

津田 以前の僕は、野球だけしか頭になかったところがあったんですが、髙代監督に人としてのあり方を学んで「野球だけしててもあかんな」と学ばせてもらいました。

髙代 津田には、上手になりたいという向上心の強さ、貪欲さと真面目さがあります。今のまま変わらずにがんばってくれたら、プロとして必ず結果が出るでしょう。彼には息の長いピッチャーになってほしいですね。チケットを買って甲子園球場に応援に行くのが僕の夢ですから。